#04 隣人
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通話記録 4
図-15
「もしもし。松山ですが……」
「はい。ご用件は?」
「先月分の収入が未払いになっておりまして」
「そうですか。確認しますね」
(保留音)
「……ああっ!」
「お待たせしました」
「うっ、うっ……」
「こちら側の記録では対応済みとなっておりまして、お手数かけますが、もう一度口座のほうをご確認いただき……」
「そ、そんなに大きな声で話さないでください!」
「どうなさいました? 音量に問題はございませんが」
「ううっ、うう……」
「もしもし、松山さん?」
「すいません。あとで……かけ直します」
2日前
図-16
隣の部屋からの物音は、依然として聞こえ続けている。
最近は日中のうちに外で仕事を終え、自宅へは寝るときだけに戻るようになった。
もはや自分の部屋が安全な場所だとは思えない。
外に出ても、隣を通る車の音や誰かの話し声、貼り紙がパタパタと風でなびく音でさえ、私の神経を逆なでする。
もはや、私にはあらゆる物音がひどく恐ろしくなってしまった。
どこに行くにも、ワイヤレスイヤホンが手放せない。
家に忘れたり、充電を忘れたりするたびに買い増した結果、十数台にもなった。
それでも、イヤホンをつけられないよりずっとマシだ。
私の精神は(ウ)マモウしきっている。警察に相談したり、カウンセリングを受けたりするべきなのかもしれないが、そうする体力すら失われていた。
どうせこれまでのように、まともに取り合ってもらえないに決まっている(注11)。
イヤホンをしながらカフェで仕事を終え、データをクライアントへ納品する。
耳を塞ぎながら閉店まで席でうずくまって、自宅へと戻る。
自宅の玄関に近づこうとしたとき、なにかが足に当たった。
視線を落とす。例の黒いゴミ袋……不愉快に膨らんだそれが、私の行く手を塞ぐように扉の前に置いてある。
図-17
まただ。
身に覚えのないゴミ袋が、またも、私の目の前にある。
マナーの悪い誰かが私にそれを押し付けたのかとか、それがここにある理由を考えることすらままならなかった。
どうして俺だけが、こんな思いをしなくちゃいけない?
その異物がひどく恐ろしく、おぞましいものに見えた。その場から動かす気にもなれず、目を逸らしながら袋をまたぐ。
もう限界だ。
そのとき、袋の端に足が当たった。
思わず肩がすくんだ。思いのほか、ずっしりとした重さを感じた。イヤホンをしていたから、袋が壁に当たったとき、どんな音がしたかはわからない。
逃げ込むように、玄関を開ける。
こんな生活を続けていたらいつか破滅してしまう(注12)。
そう思うが、状況を改善する方法など思いつかない。くそっ。
当日
図-18
今日もうつむきながら階段を上り、2階の自分の部屋へと向かう。途中で誰かとすれ違ったが、顔を合わせないので誰なのかはわからない。
いつも通り、黒いゴミ袋がドアの前に置いてある。頭がおかしくなりそうだ。いや、もうすでにおかしくなっているのかもしれない。ゴミ袋なんて、なかった。
そう自分に言い聞かせ、部屋に入る。
靴を脱いだ瞬間、なにかが聞こえた。
べしゃり、とした湿気を感じる音だった。
イヤホンのノイキャンをオンにしているはずが、まるで耳元から直接聞こえたように、生々しく響く。
息が詰まる。思わず耳をふさごうとする。
イヤホンが指先に当たって耳から落ち、ベッドの下に転がっていってしまう。
私は正気でいられなかった。鍵を閉めるのも忘れて土足で部屋に飛び込み、机の引き出しを開けた。中には予備のイヤホンがいくつかあるはずだった。
ふたたび、べしゃり、べしゃり、と聞こえる。それは次第に大きく、鮮明になっていって、まるでこちらに近づいてきているようだった。
私は震える思いで引き出しからイヤホンを取り出す。
充電が済んでいなかったのか、電源が入らない。
「くそっ!」
私は思わず、それを床に叩きつける。
図-19
新品がまだあるはずだった。棚の中を漁る。こういうときに限って、なにも見つからない。
音はずっと聞こえてくる。いまだ続いている。
呼吸が乱れる。椅子から立ち上がる。
ガサガサ、と、ビニールのようなものが擦れる音。
ビリッ、とそれを破くような音。
それが、私のすぐそばで鳴っている。
私は部屋じゅうを引っかきまわす。自分のものではない、息切れしているかのような、なにかの呼吸音が聞こえる。いつでも過不足ないように準備していたはずのイヤホンが、どこにも見つからなかった。机をひっくり返す。
私は正常でいられなくなった。耳を塞ぎ、その場にうずくまる。
赤ん坊の鳴き声のような、甲高い音が聞こえる。
いくら強く耳を塞いでも、さえぎることはできなかった。強い吐き気を催し、その場で嘔吐した。
こんな場所にはいられない。
どうにか立ちあがろうとするが、うまくいかない。脚が震えて、硬直して動かない。
なにか……なにか、ないかと、周囲を見渡した。
音はいまも聞こえつづけている。だんだんと、こちらに近づいてきている。
目の前にボールペンが転がっている。机をひっくり返したときに、床に落ちたものだ。
図-20
私はひとまず、胸を撫で下ろした。音さえ聞こえなければ、こんな思いをしなくてもいい。
私は倒れ込んだまま、ボールペンを握りしめた。それを、自分の右耳に勢いよく突き刺す。ペン先が鼓膜を破ったのであろう、湿った音が頭蓋に響いた。
強い痛みと悪寒とともに、耳の奥から暖かい液体が溢れ出す。
血液か、ほかの体液かわからないが、傷口からあふれてきたそれによって手元が滑る。ペンを取り落とさないようにしっかりと握りしめる。
歯を食いしばる。反対側の耳にも、同じことをする。傷口の肉のジュルジュルとした音が無くなるまで、何度も繰り返す。
とてつもない痛みと耳鳴りとともに、深く刺したペンを抜き出す。
反対側の耳にも、同じことをする。
痛みに耐えると、耳鳴りのほかはなにも聞こえなくなった。
私は安堵し、身体の力を抜いた。これはただの悪い夢だ。
このまま目を閉じれば、きっと、明日にはすべてが元通りとなるだろう。
目を閉じる間際、玄関の扉が開くのが見えた。誰かが、私の部屋に入り込んできている。鍵をかけていなかったのだ。
もはや扉を開く音も、侵入者の足音も聞こえはしない。侵入者は土足のまま、倒れた私のそばに近づいてくる。片手に、黒いビニール袋を抱えているのが見えた。
自分でもたらした激しい痛みと出血のせいで、視界がおぼつかない。ぼやけた視界の中で、懸命に首を伸ばして侵入者を見上げた。
口を動かしているのがわかる。なにを言っているのか、当然私にはわからない。
可能な限り、目を見開く。
いつも私のそばで物音を立てていた、あの隣人に違いなかった。
「あ、お、おか」
思わず声が漏れたが、自分の声も聞こえないのでおそらく正しく発音できていない。
侵入者は片手に持った袋を開き、中身を私に向けて投げ出した。
毛布のような柔らかいものが顔に覆い被さってきた。生暖かく、少し湿り気がある。
(C)それが口の中に入り込んでくる。喉を通って、身体の中になにかが入り込んでくる感覚がある。
これまで感じたことのない痛みと苦しみに、内側から襲われる。
呼吸が詰まる。息ができない。
吐き戻すことすらままならない。
喉が押し広げられていく感覚に襲われる。
苦しい。
苦しい。
息ができない(注13)。
図-21